7/04/2010

私の性格の要

自分の性格を構成する要素のうちの複数の性格要素につながる、いわゆる要のようなものをひとつ見つけました。
去年の誕生日にもらった扇子の要部分(使ってるよ、コケツ!)

それは、自分にしっくりくる言葉で言えば「ディフェンス志向」です。他人に説明するなら、自分の評価が下がるような出来事を避ける傾向、とでもいえるでしょうか。特に、過剰に短期的な視点からみた評価低下を嫌う傾向です。この傾向は僕の性格のうち、恥ずかしがり、タテマエ思考、言葉の正確さを求める、などを説明することができるようです。

つまり:
  • 恥ずかしがりとは他人の前での失敗を恐れること、つまり自分の評価低下を恐れることと同様です。
  • タテマエ思考は客観的な責任の所在を明らかにしようとする姿勢のことなので、責任逃れ、つまりは評価低下の回避、に適した思考法です。
  • 言葉の正確さも責任逃れに必要なものです。なぜなら発言は、責任の所在を明らかにする際に、前提となる材料・証拠となるので正確であることが望ましいからです。

自分の評価が下がらないために絶えず気を張る必要がある環境で性格形成期を過ごすと、こんな性格になるんじゃないかと思います。例えば、いっつも説明責任を執拗に求められる、とか。誤解の無いように一言加えると、自分の育ったのがそういう環境だった、と思うのでなく、現在のディフェンス志向から逆算してそう推測されるという意味で、です。

以下、功罪的な視点で見ると、短所と感じるのは恥ずかしがり屋であること、逆に言葉の正確さを求める姿勢は長所に、タテマエ思考は短所・長所のどちらでもあります。恥ずかしがり屋は結構大きい短所で、口数が少なくなるので、会話経験の量が減り、口ベタにつながり、世渡り上手とは真逆な現状です。

言葉の正確さを求める姿勢は、外国語学習に大きく貢献していると思います。和文英訳の際に必要と言われる、いわゆる和文和訳、すなわち日本語の文を解釈しアイデアの段階まで理解を深め、英訳しやすい和文に再表現するような作業、が楽しいと感じます。

タテマエ思考は責任逃れ志向の小さくまとまった(ある意味でセコイ)行動につながるという点で短所ですが、思考力を得るために必要な訓練を提供してくれる(くれた)という点ではありがたい性格です。つまり、責任逃れの弁をタテマエ論で筋が通るように構築する訓練を通じて、客観的に考える力・論理的に考える力を養うことができたのではないかと思います。

性格の複数の要素を説明できる「要」を見つけるってちょっと面白い経験でした。今頭の中で別の性格要素が形をはっきりさせつつあるので、言語化できるのが楽しみです。どうも、自分の体験を語るとか、好きなもの(がなぜ好きか)を語るとか、そういったことが苦手なようで、それを過不足ない言葉で表現したいなぁ、ってとこです。体験・経験の認識障害とか、体験・経験の解釈に必要なフレームワークを持っていないとか、そんな感じの言葉で。

P.S. ヒントをくれたあなた、面白い経験をありがとう。

2 comments:

  1. 再びotaです。

    私は言葉良く言い間違うし、感覚で伝えようとするから、
    よくお兄さんに突っ込まれたなぁっというのを思い出しました。

    7/4-5の内容を含めて、個人的な意見ですが少し。
    うまく伝わるか分からんけど。

    正確な言葉を求めすぎるせいか、+-はあるけど、
    具体的にそれをどう感じたのか?
    という感覚の部分が抜けてる文が多い気がする。


    「なぜ」をどんなにうまく説明しても、そのことをどう感じるかは人次第なんだから、「正確な」言葉にできなくても、自分の感覚を入れないと何が言いたいのか良く分からなくなると思う。

    7・5の分で言えば、批判して、休暇中の軽い語学留学くらいなら割にあってる。と思うっと、考えて、で?
    って、感じてしまう。
    そんなもんだと皆悟って代償が大きすぎる馬鹿な真似止めればいいのに、とか、
    語学留学の企画する人たちも年単位のはやめて、休暇中にいけるプランだけにしたらいいのに、とか、
    そう考えたことに対して、どう感じたかがない。

    虹の色を全ては言語化なんてできないみたいに、
    性格なんてあいまいなものを、「正確」に表現なんて
    できないと私は思う。できるとしたら、それは言葉で規定されたものに当てはまる形に人がなる場合やね。ブレ幅はあるだろうけど。
    お兄さんは、自分の言葉に正確さを求めるあまり、
    言語化した性格に本来の性格をゆがめられそうで、
    危なっかしい感じがする。
    性格の言語化自体は就活とかでもするし、
    自分の長所・短所を把握する上で、
    必要な行為とは思うけどね。

    体験・経験をうまく伝えられないのは、
    そのことを論理的に説明できても、
    どう感じているのかという自分の感覚を見ずに、
    論理的説明で満足してしまうから、じゃないかな。

    これはあくまでも個人的な意見なので。
    気に障ったらごめん。

    では

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  2. otaさん、おもしろいコメントありがとう。返事が遅くなってごめん。さて・・・

    > 正確な言葉を求めすぎるせいか、+-はあるけど、具体的にそれをどう感じたのか?という感覚の部分が抜けてる文が多い気がする。

    これはつまり「ふつう人は自分の感想を表現しようとする際に、完璧に正確な言葉が見つからないと、妥協して正確でない言葉でも用いて感想を表現しようとする。しかし僕は言葉の正確さを過剰に求めるために、妥協して正確でない言葉を使うことができない。だから、完璧に正確な言葉がみつからないと、感想を表現することをあきらめてしまう。(もう一歩踏み込めば、正確な言葉が見つかることは稀だから僕が感想を表現できることは稀)」ということかな。そうなのかもしれない(否定も完全な肯定もできないという意味で)。

    > 「なぜ」をどんなにうまく説明しても、そのことをどう感じるかは人次第なんだから、「正確な」言葉にできなくても、自分の感覚を入れないと何が言いたいのか良く分からなくなると思う。

    「そのことをどう感じるかは人次第」であれば「自分の感覚を入れないと何が言いたいのか良く分からなくなる」のはなぜ?

    「何が言いたいか」という言葉について。僕の文章は何かしらの命題を説明・証明することを目的にする場合がままある。そういう場合には言いたいことはその命題であって、それを僕がどう感じるかではない。
    otaさんの言う「何が言いたいか」は著者の感想・感情を指すように思える。その意味で僕の文章は「何が言いたいのかが良く分からなくなる」ことがよくあるかもね。
    ひとつ下の答えを書いてて気付いたけど、命題自体が僕の価値観(つまり感想)の表現になってることもよくあるかぁ。

    > 7・5の分で言えば、批判して、休暇中の軽い語学留学くらいなら割にあってる。と思うっと、考えて、で?って、感じてしまう。
    > そう考えたことに対して、どう感じたかがない。

    「割にあってる」は僕の価値観の表現だよね。その意味で、それは僕が「どう感じたか」にあたるんじゃないかと思う。例として挙げてくれた
    > そんなもんだと皆悟って代償が大きすぎる馬鹿な真似止めればいいのに、とか、
    > 語学留学の企画する人たちも年単位のはやめて、休暇中にいけるプランだけにしたらいいのに、とか、
    は、「割にあってる」という結論を個別のケースにあてはめた場合に得られる感想だね。ところで、一般的な結論を個別ケースにあてはめた感想があると具体性が増してわかりやすい、ってのはありうるね。

    > 虹の色を全ては言語化なんてできないみたいに、性格なんてあいまいなものを、「正確」に表現なんてできないと私は思う。

    なるほど、そうだろうね。それなら僕は*できるだけ*正確に描写できたら嬉しいと感じる。

    > 自分の言葉に正確さを求めるあまり、言語化した性格に本来の性格をゆがめられそう

    言語化した性格に寄っていくことはあると思う。ただその原因が、自分の言葉に正確さを求めるからだとは思わないな。言葉を換えれば、言語化した性格に寄っていってしまう度合いと言葉の正確さを求める度合いとの間には因果関係はないし、相関さえないと思う。

    > 言語化した性格に本来の性格をゆがめられそうで、危なっかしい

    それがどう危ないのか、つまりどんな不利益があるのか想像できない。

    > 体験・経験をうまく伝えられないのは、そのことを論理的に説明できても、どう感じているのかという自分の感覚を見ずに、論理的説明で満足してしまうから、じゃないかな。

    これは「論理的説明で満足してしまうとは、つまり体験をうまく伝えることに魅力を感じないということ。(そして魅力的でない目標に向かって努力をする動機はうすい。)だから体験をうまく伝えるための努力ができず、体験をうまく伝えられない」ということかな。これも、そうかもしれないと思うよ。

    いやぁ、いい現実逃避になった(笑

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